双極性障害の「躁状態」を、初めて目の当たりにしたとき、私は「なぜこの人はこんなにエネルギーがあるのだろう」と思いました。それが「症状」だとわかるまでに、少し時間がかかりました。
躁状態は、うつ状態と並んで双極性障害の中心的な症状です。でも「元気そうに見える」ため、周囲から「良くなった」と誤解されることがある。本人も「調子がいい」と感じていることが多い。それが躁状態の難しさのひとつです。
「躁状態」とはどういう状態か
躁状態とは、気分が高揚し、活動性が高まり、睡眠が少なくても元気でいられる状態です。「やる気に満ちている」「アイデアが次々と浮かぶ」「誰とでも話せる気がする」——本人にとって、悪い状態には感じられないことが多い。
でも、この状態が続くと問題が起きます。判断力が低下して、大きな買い物をしてしまう。人間関係でトラブルになる。睡眠が取れない状態が続いて体が壊れる。そして躁の後には、深いうつが来ることが多い。
「躁状態は悪いことじゃない」と思う方もいます。確かに「元気」に見えます。でも「コントロールできない元気」は、長期的には大きな被害をもたらすことがある。
APさんのこと——給料を使い切ってしまった
APさん、30代の女性。双極性障害の診断を受け、子育てをしながら生活していました。安定している時期は、他の家族と外食に出かけたり、友人家族と交流したりと、充実した生活を送っていました。
ある週の訪問のとき、APさんは少し表情が固く見えました。「今週、頓服は使わずに過ごせていたんですけど」と話しながら、でも続きが気になる様子で。「実は、給料をほとんど使い切ってしまって」と言いました。
躁状態が出ていた週に、衝動的な買い物が増えていた。「これが欲しい、あれも欲しい」という感覚がコントロールできなくなっていた。お金が手元にあれば使ってしまう。気づいたら残高がほとんどなくなっていた。
「長男に『貯金を使っていいよ』と言ったら、気を使わせてしまって。親として情けない気持ちになってしまった」と、APさんは言いました。「昨日から気分が落ち込んでいる。残っていた頓服を一度に飲んでしまった」と続けた。
躁状態の後に来たうつが、急激だった。「躁でやってしまったこと」への後悔と自己嫌悪が、うつをより深くすることがあります。「あんなことをしなければ良かった」「子どもに心配させてしまった」——こういった後悔が、次のうつを重くします。
躁状態のサインを早めにつかむ
双極性障害の管理で大事なのは、「躁になってしまってからどうするか」ではなく、「躁になりそうなサインを早めにつかむ」ことです。
よくある躁のサイン:睡眠が短くなる(「3時間しか寝ていないのに元気」という状態)。考えが次々と浮かんで止まらない。話したいという気持ちが強くなる。お金を使いたくなる。人に連絡したくなる(深夜に電話してしまうなど)。
「これらが重なってきたら、躁かもしれない」という自己観察ができるようになると、早めに主治医に相談できます。「今週少し睡眠が短くなってきた」という段階で受診できれば、大きな問題になる前に対処できることが多い。
APさんとは、「お買い物に行くときは、キャッシュカードを置いていく」という具体的な工夫を一緒に考えました。衝動的な出費を物理的に止める方法です。「わかってはいるけど、止められない」という躁状態の特性に対して、「止められなくても大丈夫な環境を作る」というアプローチです。
「寂しい」という言葉が繰り返されるとき
APさんが子どもたちの話をしながら、「寂しい」という言葉を何度も言っていました。次男の慣らし保育が始まる、長男も学校が始まる——子どもたちが家を離れていく時間が増えることへの寂しさ。その感情が、状態変化と関係している可能性がありました。
「寂しい」という感情は、うつへの引き金になることがあります。特に双極性障害では、感情の変化が症状の変化につながることがある。「今週、何度も寂しいと感じていた」という観察が、状態変化への早期気づきになります。
双極性障害との長い付き合い
双極性障害は、波がある病気です。完全に波をなくすことは難しい。でも「波が来たときのダメージを小さくする」「波の後に素早く立て直す」ことは、訓練で上達します。
APさんは給料を使い切ってしまった後も、「お買い物にはキャッシュカードを持っていかない」という工夫を実践しようとしていました。「親として情けない」という気持ちと一緒に、「また同じことをしないようにする」という意志もあった。その意志を、私は大事にしたいと思っています。
躁状態の後のうつについては再入院を繰り返す本当の理由にも書いています。回復について知りたい方は回復とはどういうことかもご覧ください。
APさんの「躁の始まり」のサイン
APさん、33歳。双極性障害I型で、躁状態のときと抑うつ状態のときの落差が大きい方です。担当になってから2年半、何度か躁状態のエピソードを一緒に経験してきました。
APさんの躁の始まりには、いくつかのサインがあることを、一緒に確認してきました。「LINEの返信が早くなる」「話すスピードが上がる」「睡眠時間が短くなっても平気だと言う」「急に計画が増える」——これらが重なったとき、「少し上がってきているかも」という状態です。
APさん自身も、「自分が躁になっているときは気づきにくい」と言っています。「躁のときは全部うまくいく気がする。判断が間違っている気がしない。だから止まれない」と。だからこそ、外から見ている私が「少し上がっていませんか」と問いかける役割が大事になります。
給料日の翌日に何が起きたか
APさんが給料を一度に使い切ってしまった月がありました。25万円が、3日間でなくなっていた。「何に使ったんですか」と聞くと、「友達へのプレゼント、おいしいものを食べるのに、あとネットで面白そうなもの買った」と言いました。「全部残ってる?」と聞くと、「そうでもない。でも楽しかった」と言った。
そのとき、APさんはまだ「上がっている状態」にありました。「使いすぎましたか」と聞くと、「使いすぎだと思うけど、でも楽しかったから」という返答。「楽しかったからOK」という判断ができてしまう状態が、躁の怖さです。「あとで後悔するかも」という想像力が働きにくくなっています。
1週間後、APさんは「やっちゃった」と言いました。「今月あと3週間、食費しかない。どうしよう」と。「次の給料日まで何日ありますか」と確認して、一緒に食費の計算をしました。「来月から給料日はすぐ一部を封筒に入れて使わないようにしようと思う」と言い出したのはAPさん自身です。「その封筒、誰かに預けますか」と聞くと、「坂本さんに預けるのは難しいですよね」と笑いながら言って、「わかった、カードを次の給料日まで家に置いておく方法を考える」と言いました。
頓服薬をまとめ飲みしてしまうこと
APさんには、頓服薬を「症状が出たとき1錠」という指示が出ていますが、躁状態のときに「眠れないから」と一度に3〜4錠飲んでしまうことがありました。「眠れなくて、1錠飲んでも効かなくて、焦って飲んだ」という説明でした。
頓服薬の重複服用は危険です。主治医に報告して、頓服の量と指示内容を再確認しました。「眠れないとき、薬以外に試せることはありますか」と一緒に考えて、「耳栓をしてみる」「暗い動画を見る」「深呼吸を10回やってみる」という方法を書き出しました。「これを試してからにしてください。それでも眠れなければ1錠、それでも眠れなければ朝まで待って電話してください」という約束にしました。
「眠れない」という状態は、躁状態の初期サインでもあります。「眠れないから薬を飲む」ではなく「眠れないということは状態が上がってきているかもしれない」という認識を一緒に持てるようになると、対応が変わります。APさんは今、「眠れない夜が2日続いたら連絡する」という約束を守ってくれています。
「寂しい」という言葉の重さ
APさんが「寂しい」と言ったのは、ちょうど抑うつ状態から回復しかけたころのことでした。「躁のときは友達といっぱい会える。でも鬱のときは誰にも会えない。その落差が寂しい」と言いました。
双極性障害を持つ方が話す「寂しい」という言葉には、特有の重さがあります。状態が良いときに築いた関係が、悪いときに維持できない。躁のときに「また会おう」と約束して、鬱のときに「行けません」と断り続ける——その繰り返しで関係が壊れていく体験をしている方が多い。
「寂しいですよね」と答えました。「でも、今APさんはここで話してくれています。私はAPさんのことを知っています。躁のときも鬱のときも、2年半一緒にいます」と言うと、APさんはしばらく黙って「そうか」と言いました。
訪問看護師が「継続して関わる」ことの意味は、こういう場面にあると思っています。「調子がいいときだけ来る人」ではなく、「どんな状態でも来る人」として存在すること。それが、孤立しやすい病気を持つ方にとっての安心の基盤になります。APさんが「坂本さんに預けるのは難しいですよね」と笑いながら言えたのも、2年半の関係があったからだと思っています。
「躁の後の鬱」をどう支えるか
APさんは、躁エピソードのあとに必ず強い抑うつ状態が来ます。「あれだけ楽しかったのに」「なぜあんなことをしてしまったんだろう」という後悔と、身体の重さと、何もしたくないという無力感が重なる時期です。
この時期の訪問は、「何かをする」よりも「一緒にいる」ことが中心になります。「今日どうですか」と聞いて、「ダメです」という返答があれば、「そうですか、ダメな日ですね」と答える。無理に元気づけようとしない、解決策を出そうとしない。「ダメな日をダメだと言える人がいる」というだけで、少し楽になれることがある。
APさんは、抑うつ状態のとき「こんな自分じゃいられない」という言葉を使います。そのたびに「どんな自分でもAPさんです」と伝えます。「躁のときのAPさんも、鬱のときのAPさんも、どちらも知っています」と言うと、APさんは黙ってうなずく。その沈黙の中に、何かが届いているような気がします。
長期的な関係の中で変わっていくもの
APさんと2年半関わって、変わってきたことがあります。「躁になると止まれない」という感覚が、「躁になりそうだと気づける」に少しずつ変わってきた。「眠れない夜が2日続いたら連絡する」という約束ができた。給料の使い方に工夫が生まれた。
「完治」というゴールはないかもしれません。双極性障害は、うまく付き合い続けることが目標になる病気です。でも「うまく付き合う」ためのツールを、一緒に増やしていくことはできます。APさんが「また上がりそう」と自分で気づいて連絡してくれたとき、「ちゃんと自分を観察できていますね」と伝えます。その小さな積み重ねが、APさんの生活を少しずつ安定させていきます。
APさんは最近、「躁のときの自分と鬱のときの自分、どっちが本当の自分かわからなくなる」と言っていました。「どっちもAPさんです。どっちも知っています」と答えると、「それはちょっと安心する」と言った。「本当の自分」を一人で探さなくていい。「どっちも知っている人がいる」という感覚が、双極性障害を持つ方の安定の一部になることがあります。APさんとの関わりが、これからも続くことを願っています。
双極性障害は「治る」より「うまく付き合う」病気です。APさんが少しずつ自分のパターンを知り、「上がりそうだと気づいたら連絡する」という習慣を作ってきた。その小さな積み重ねが、「崩れにくい生活」になっていきます。APさんと一緒に作ってきたその積み重ねを、これからも続けていきたいと思っています。
「どっちのAPさんも知っている」——その言葉が、APさんにとっての安心の基盤であり続けてほしいと思っています。
APさんが「また上がりそう」と自分で気づいて連絡してくれた日、私はそっとガッツポーズをしました。
小さな積み重ねが、APさんの明日を作っています。
APさんの明日を、一緒に作り続けます。
それが、この仕事です。
坂本なつ