「寄り添う看護」という言葉があります。看護学校でも習いました。でも現場に出て12年、「寄り添う」の意味をずっと考えてきた気がします。

「何かしてあげること」ではなかった

最初の頃、「寄り添う」とは何かをしてあげることだと思っていました。問題を解決する、アドバイスをする、励ます。

でも現場で気づいたのは、「何もしない」が大事なときがある、ということです。

Rさんが調子の悪い日、何もしゃべらずに、ただ横に座っていたことがあります。バイタルを測って、服薬を確認して、あとは黙って座っていた。30分。

帰り際、Rさんが「今日は来てくれてよかった」と言いました。

「そこにいること」

寄り添うとは、「そこにいること」なのかもしれない。解決しなくていい、答えを出さなくていい。ただ、その場にいる。

それだけで十分なことが、精神科の現場には多い。

でも「距離」も必要

寄り添いすぎることの危険もあります。感情移入しすぎて、判断が鈍くなる。「この人のためなら」と、専門家として言わなければいけないことが言えなくなる。

適切な距離を保ちながら、でもそこにいる。これがずっと難しくて、ずっと考え続けていることです。

「何もしない」が最善のときがある

「寄り添う」という言葉の実体は何か、と考えるとき、「何もしないこと」が答えになる場面があります。利用者さんが泣いているとき、「どうして泣いているんですか」「こうすれば楽になりますよ」と言葉をかけることは、「何かをしようとすること」です。でも、ただそこにいて、横に座っていることが、「寄り添うこと」になる場面がある。

Zさん(61歳)が泣いていた日、私はしばらく何も言いませんでした。「どうしたんですか」と言いたかったけど、「言葉をかけないでいること」の方が正解だと感じた。しばらくして、Zさんが「ごめんなさい、急に」と言いました。「いいんですよ」と言って、また黙っていました。Zさんが話し始めたのはその後でした。「一人でいると、急に悲しくなる日がある。でも誰かがそこにいると、少し違う」と言いました。

「何もしないことが寄り添うことになる」——その感覚は、経験から生まれました。最初の頃は「何かしなければ」というプレッシャーがありました。でも「何もしないでいること」が、場合によっては最も大切なケアになると、利用者さんたちが教えてくれました。

「解決しないこと」が寄り添いになること

「問題を解決しようとしないこと」が、寄り添いになることがあります。「こうすれば解決できる」を提案することよりも、「今の状態を一緒に受け取ること」の方が大切な場面があります。

AAさんが「もう嫌だ、全部嫌だ」と言っているとき、「何が嫌なんですか」「こうすれば変わりますよ」と言うことは、「あなたの嫌だという気持ちを解決しようとしている」行動です。でも「全部嫌な日ですね」と受け取ることは、「あなたの今の状態を否定せずに一緒にいること」になります。その違いが、相手の感じる「寄り添われ感」を変えます。

12年経ってわかったこと

「寄り添う」という言葉の意味を、12年ずっと考えてきました。今の私なりの答えは、「その人の今を否定せずに一緒にいること」です。悲しいときに悲しさを否定しない、嫌だというときにその気持ちを解決しようとしない、怒っているときにその怒りを消そうとしない——「今のその人」のままでいることを認めながら、そこに一緒にいること。

「一緒にいる」ことは、スキルではなく態度です。「どうすれば寄り添えるか」というマニュアルはなく、「今この人に何が必要か」を感じ取る感覚と、「そこにいること」を選ぶ意志があれば、自然と生まれてくる。その感覚を磨き続けることが、この仕事を続ける理由のひとつでもあります。

「寄り添う」という言葉の重さ

看護の世界で「寄り添う」という言葉はよく使われます。「患者に寄り添った看護」「ご本人の気持ちに寄り添って」——聞こえのいい言葉ですが、では実際に「寄り添う」とはどういうことか、と聞かれると答えるのが難しい。

私は12年間精神科の訪問看護をしてきて、「寄り添う」とは何かを何度も問い直してきました。その問いに、Zさんとの関わりが一つの答えをくれました。

Zさんとの「寄り添えなかった」経験

Zさん、61歳。老年期うつと診断されていました。夫を五年前に亡くし、子どもは遠方にいて、ほぼ一人で生活していました。私が訪問を始めたころ、Zさんは「誰もわかってくれない」という言葉を繰り返していました。

私は懸命に「わかろう」としていました。「それはつらいですね」「よくわかります」と言い続けた。でも、あるときZさんが言いました。「坂本さんはわかってるふりをしてる。本当はわかってないでしょ」。

その言葉は刺さりました。私は「寄り添っている」つもりでいたのに、Zさんにはそう届いていなかった。私は何かを間違えていた。

それから私は変えました。「わかります」を言うのをやめました。代わりに「どういうときに一番つらいですか」「具体的にどんな場面が苦しいですか」と聞くようにした。Zさんの言葉を否定も肯定もせず、ただ聞いてメモをとった。

三週間後、Zさんが言いました。「坂本さんが来るのが楽しみになってきた」。「なんでですか」と聞くと「話を聞いてもらえる気がするから」と。「わかります」と言わなくなって、初めて「聞いてもらえる」と感じてもらえた。それが「寄り添う」の一側面だと気づきました。

AAさんが教えてくれた「距離感の寄り添い」

AAさんは50代後半、統合失調症の陰性症状が強い方でした。無口で、あまり話さない。私が何を聞いても「まあ」「べつに」という短い返事でした。

最初の三ヶ月、私はAAさんに「もっと話してほしい」という気持ちを持っていたと思います。「寄り添おう」として、質問をたくさんしていた。でもAAさんはそれが嫌そうでした。ある日「質問されるのが疲れる」と言われました。

それから私は、訪問の半分の時間を「ただそこにいる」ことに使い始めました。質問しない。会話を強いない。AAさんの横に座って、窓の外を見たり、お茶を飲んだりするだけ。それがAAさんにとっての「寄り添う」だったのかもしれません。

半年後、AAさんが自分から話しかけてきた日がありました。「今日、久しぶりに外に出ました」。それだけの一言でしたが、私には大きく聞こえました。

「寄り添う」とは、一つの形ではありません。Zさんには「聞く」こと、AAさんには「ただいること」が寄り添いでした。その人が必要とする形に自分を合わせること——それが「寄り添う」の実態だと、今は思っています。正解は毎回違う。だから毎週訪問するたびに、問い続けます。

「一緒にいること」が寄り添いになるとき

AAさんとの経験で気づいたことがあります。「寄り添う」とは、何かをしてあげることではない場合がある。ただそこにいること。同じ空間にいて、同じ時間を過ごすこと。それが、言葉や行動よりも大きな意味を持つ瞬間があります。

AAさんは言葉が少ない方でした。私が質問しすぎると疲れてしまう。だから「ただいること」に切り替えた。訪問の半分の時間を沈黙で過ごすことに、最初は慣れませんでした。「何かしなければ」という焦りがありました。でも、その焦りを手放したとき、AAさんとの間に初めて「場」が生まれた感覚がありました。

寄り添いは一方通行ではない

Zさんに「わかってるふりをしてる」と言われたとき、私は「寄り添おうとしすぎていた」ことに気づきました。寄り添いが一方的な行為になっていた。「あなたのために寄り添っています」という姿勢が、逆にZさんを孤立させていたのかもしれません。

本当の寄り添いは、対等な関係の中にあると今は思っています。「私はあなたのことを知りたい」という純粋な関心。「あなたの話を聞かせてほしい」という姿勢。それが伝わったとき、Zさんは「聞いてもらえる気がする」と言ってくれました。

「寄り添う」とはどういうことか——この問いには、永遠に完全な答えが出ないと思っています。でも、その問いを問い続けること自体が、寄り添いの一部だと今は感じています。ZさんとAAさんのそばで、今日もその問いを持ち続けます。

「寄り添う」ことを続けるための自己ケア

「寄り添う」ことを職業としている以上、自分自身のケアも必要です。毎日複数の利用者さんの重い話を聞き、感情に向き合い続けていると、看護師側もダメージを受けることがあります。共感疲労(compassion fatigue)と呼ばれる状態です。

私自身、Zさんに「わかってるふりをしてる」と言われたとき、かなりダメージを受けました。「自分の関わりは何だったのか」という自己否定の気持ちが数日続きました。でもそれをそのままにせず、スーパービジョン(先輩や上司への相談)を活用しました。「Zさんにそう言われたことを、どう受け取ればいいか」を話すことで、自分の中で整理することができました。

「寄り添う」ことを長く続けるためには、寄り添われる経験も必要です。誰かに話を聞いてもらい、自分の感情を整理することで、また利用者さんの前に立てる。それが持続可能な「寄り添い」を作ります。

「寄り添う」の先にあるもの

ZさんとAAさんとの経験を通じて、私が今「寄り添う」という言葉に込める意味は変わりました。最初は「理解しようとすること」だと思っていました。今は「理解しきれないことを知りながら、それでも向き合い続けること」だと思っています。

Zさんの五十年の孤独を、私は本当の意味で理解できません。AAさんが言葉なしに伝えようとしているものを、すべて受け取れているかどうかわかりません。でも、わかろうとし続けること——その姿勢が「寄り添い」の核心にあると思っています。

今日もZさんとAAさんの訪問があります。「寄り添えているか」と問いながら、それでも向き合い続けます。正解がないことを知っていても、問い続けることをやめない。それが私の「寄り添い」です。

ZさんとAAさんは、「寄り添い」の二つの形を私に見せてくれました。Zさんには「聞く」こと、AAさんには「ただいること」。その人が必要とする形に自分を合わせていくこと——それが「寄り添う」の実践です。マニュアルには書けない、その人との関係の中からしか生まれないものです。だから毎週訪問するたびに、「今日のこの人には、何が必要か」を問い続けます。その問いを持ち続けることが、私にとっての「寄り添う」という行為です。今日もその問いを持って、訪問に向かいます。

「寄り添う」ことに終わりはありません。それが精神科訪問看護の深さであり、難しさであり、面白さです。

Zさんが「坂本さんが来るのが楽しみになってきた」と言った日から、毎週の訪問が少し変わりました。「来てもらっている」から「会いに来てもらっている」へ。その変化はZさんの言葉から生まれました。AAさんが自分から「外に出ました」と言った日のことも、今もはっきり覚えています。ただいることが、その言葉を引き出した。「寄り添う」とは、その人が自分で動き出す余白を作ることかもしれません。今日もZさんとAAさんに会いに行きます。

余白を作ること。それが私の「寄り添い」の今の形です。

Zさんが「坂本さんが来るのが楽しみになってきた」と言った日から、毎週の訪問が少し変わりました。「来てもらっている」から「会いに来てもらっている」へ。その変化はZさんの言葉から生まれました。AAさんが自分から「外に出ました」と言った日のことも、今もはっきり覚えています。ただいることが、その言葉を引き出した。「寄り添う」とは、その人が自分で動き出す余白を作ることかもしれません。今日もZさんとAAさんに会いに行きます。

余白を作ること。それが私の「寄り添い」の今の形です。

「寄り添う」ことに終わりはありません。ZさんとAAさんのそばで、今日もその問いを持ち続けます。その問いを捨てない限り、「寄り添い」は続きます。

ZさんとAAさんから「寄り添い」の二つの形を学びました。「聞くこと」と「ただいること」。どちらもその人との関係の中から生まれた形です。今日もその学びを持って訪問します。


坂本なつ(精神科訪問看護師・12年)

おすすめの記事