「声が聞こえる」と聞いて、どんなイメージを持ちますか。映画のシーンのような、大きな絶叫が聞こえる——そんなイメージを持つ方が多いかもしれません。でも実際は、もっと日常的な、もっと「それとともに生活している」形であることが多いです。

幻聴のある方と長年関わってきた中で、「聞こえることと、どう折り合いをつけているか」が、その人の生活の質に大きく影響することを感じています。今日は、幻聴と生きている人たちのことを書いてみます。

「幻聴」とはどういうものか

幻聴とは、実際には存在しない音や声が聞こえる体験です。統合失調症の症状として多く知られていますが、双極性障害や重度のうつ病、その他の精神疾患でも起こることがあります。

「声」の内容は様々です。自分を批判する声、命令する声、悪口を言い続ける声、特定の言葉を繰り返す声——声ではなく、音楽や物音として聞こえる方もいます。それが一日中続く方もいれば、特定の状況(疲れているとき、ストレスが高まっているとき)だけ聞こえる方もいる。

大事なのは、「声が聞こえること」が本人にとってどれほど負担なのかは、本人しかわからないということです。「どうせ幻聴だから」と片付けることはできない。本人にとって、その声は確かに聞こえている現実です。

Lさんのこと——「最近、聞こえなくなった」

Lさん、20代の女性。長い間、幻聴があって不安定な状態が続いていました。

Lさんの幻聴は、イライラや感情の爆発と結びついていました。「ピアノを弾いていても、途中で感情が爆発しそうになる」「夜中に足をバタバタしてしまう、唸ってしまう」——お母さんからも「日に日にひどくなっている気がする」という心配の声がありました。外出中も感情のコントロールが難しく、自転車の安全な運転についても心配な場面がありました。

新しい薬に変わってから数週間後の訪問のとき、Lさんは「あれ、最近聞こえないな」と言いました。まるで独り言のように、ポツリと。「薬が変わってから、イライラも減った。なんか静かになった気がする」と言っていた。

「聞こえなくなった」——この言葉の重さを、私はしばらく噛み締めていました。Lさんにとって「声が聞こえること」は、長い間の日常でした。声があることが当たり前の生活。それが「ない」状態になった。「静かになった」という感覚を初めて味わえた。その変化が、どれほど大きなことか。

「声と折り合う」という生き方

薬で幻聴が完全になくなる方もいますが、そうでない方も多いです。長年「声と共に生活する」ことを続けてきた方がいます。

そういう方の中には、「声がいつ来るかのパターン」を自分なりにつかんでいる方がいます。「疲れているときに聞こえやすい」「人が多い場所に行くと声が増える」「一人でいると声が大きくなる」——そういったパターンを知ることで、「声が来やすいタイミングで一人でいないようにする」「疲れたら早めに休む」という対策を取れるようになる。

「声に従わない」ことも、練習が必要です。声が「○○をしろ」と命令してくることがある。その声に従ってしまうと、生活が壊れていく。「声は声であって、自分の意志ではない」という区別を保ち続けることが、声と共に生きるための力になります。でもそれは、簡単なことではありません。

「声がある」と打ち明けてもらえるまで

「声が聞こえる」と打ち明けてくれるまでには、時間がかかることがあります。「言ったら怖い目で見られるかもしれない」「また入院させられるかもしれない」——そういう恐れから、声のことを隠している方もいます。

私が「声は聞こえますか」と聞くとき、トーンに気をつけています。検査するような感じで聞かない。「ここ最近、声のことはどうですか」と、日常の続きのように聞く。「ある」と答えてもらっても、「それで今どんな感じですか」と次の話を続ける。声があることを大ごとにしない、でも軽くもしない——そのバランスが大事だと思っています。

「調子がいいとき」に話しておくこと

幻聴が悪化しているとき、本人は話しにくくなることが多いです。声に集中していて、会話に集中できない。そのため、「調子がいいとき」に「悪くなったらどうするか」を話しておくことが大事です。

「声がひどくなってきたら連絡してください」「こんな状態になったら受診した方がいいというサインを一緒に決めておきましょう」——このような事前の合意が、状態が悪化したときに動けるかどうかの分かれ目になります。Lさんとも「音が大きくなってきたら教えて」と話していました。

周囲の人へ——「気のせいじゃないか」と言わないでほしい

幻聴のある方の周りにいる人へ、一つお願いがあります。「気のせいじゃないか」「そんな声は実際には聞こえてない」と言わないでほしいのです。

本人にとって、声は確かに聞こえています。それを「気のせい」と言われると、自分の体験を否定された感覚になります。「誰にも信じてもらえない」という孤独が深まります。「声が聞こえてつらいんだね」と、体験そのものを受け取ることが大事です。「幻聴だから実際には何もない」ではなく、「聞こえることでつらい思いをしている」という事実は本物です。

「聞こえなくなった」とLさんが言ったとき、私は内心とても嬉しかった。でも同時に、「これまでずっと聞こえていたんだな」という重さも感じていました。声が消えた喜びは、声があった苦しさの裏側にある。その両方を、一緒に感じていたいと思っています。統合失調症と幻聴については統合失調症とはどんな病気かにも書いています。

「声と戦わない」という選択

幻聴について話すとき、多くの方が「消したい」「なくなってほしい」と言います。当然の気持ちです。でも、長年幻聴と付き合ってきた方の中に、「戦うのをやめた」という人がいます。

Lさんもそのひとりでした。発症したのは19歳のとき。「爆発するような音が聞こえる」「人の声が頭の外から聞こえてくる」という幻聴で、外に出られなくなった。最初の数年は「消そう」として、薬を大量に飲んだり、声に向かって叫んだりしていた時期があったそうです。でも「戦えば戦うほど声が大きくなる気がした」とLさんは言っていました。

転換点になったのは、精神科のデイケアで「声に名前をつける」というワークに参加したことだったそうです。「あいつは怖い声、こいつは意地悪な声、でもこっちはただうるさいだけ」——声を「敵」ではなく「うるさい存在」として扱い始めたとき、少し距離が取れた。「完全にいなくなってほしいと思うのをやめたら、少し楽になった」とLさんは言っていました。

幻聴が「静かになる場面」を一緒に探すこと

私が担当になってから、Lさんと「声が静かになるのはどんなときか」を一緒に考えるようになりました。最初は「わからない」と言っていたLさんが、少しずつ「ピアノを弾いているとき」「シャワーの音を聞いているとき」「誰かと話しているとき」という場面を挙げ始めました。

「ピアノを弾いているとき声が消える」という発見は、Lさんにとって重要でした。「つまりLさんには、自分で声を静める手段がある」ということになる。薬だけじゃない、自分の力でできることがある。「ピアノを弾けばいい、それを使っていい」という認識が、Lさんの自信になりました。

幻聴を「なくす」ことだけを目標にすると、声が出るたびに失敗に見えてしまう。でも「声があっても、うまく付き合っていく」を目標にすると、「今日も声はあったけど、ピアノを弾いたら少し落ち着いた」が「うまくいった1日」になります。目標の設定が、回復の感覚を変えます。

家族が「信じてくれない」という痛み

Lさんが最もつらかったと話していたのは、「母親に信じてもらえなかった」ことでした。「声が聞こえる」と言ったとき、「そんなわけない、気のせいだ」と言われた。「寝不足なんじゃないか」「考えすぎだ」と言われた。「自分が壊れているのかと思った」とLさんは言っていました。

家族が幻聴を「信じられない」のは、理解できます。見えないものが「聞こえる」というのは、体験していない人には想像しにくい。でも、信じてもらえないことの孤独は、当事者にとって非常に深刻です。「誰にも伝わらない体験」を一人で抱えることが、さらに追い詰めることになります。

私が家族と話すとき、「信じてほしい」ではなく「否定しないでほしい」とお願いするようにしています。「本当に聞こえているのかどうか」は、家族には確認できない。でも「あなたにとって、それが本当に聞こえているんだね」と受け取ることはできる。「否定しない」だけで、当事者の孤独はかなり和らぎます。

「聞こえなくなった」と言った日

Lさんが「3日間、ほぼ聞こえなかった」と言ったのは、私が担当になってから約1年が経ったころでした。「最初は気のせいかと思ってた。でも本当に静かだった」と言いながら、Lさんは笑っていました。「ちょっと怖かった。静かすぎて」とも言っていた。

「怖かった」という言葉に、私は少し驚きました。「なくなってほしいと思っていたのでは」と聞くと、「うん。でも急になくなると、どこかに行ったわけじゃなくて、またいつでも来るかもしれないという不安があった」とLさんは言いました。

それは、複雑な回復の感覚です。声がなくなることが「完全な解放」ではなく、「いつ戻るかわからない状態」への不安を伴う。幻聴のある生活を長年続けてきた人にとって、「声のない状態」も一種の不確かさなのかもしれない。Lさんがそれを言語化できたことが、私にとっては印象的でした。「今の自分の状態を観察できている」という力があるということだから。

Lさんとの関わりを通じて、「幻聴と生きる」という言葉の意味を考えるようになりました。「なくす」だけが目標ではない。「ある」状態でも、自分らしく動ける日を増やすこと。「ある」状態でも、誰かと話せること。「ある」状態でも、ピアノが弾けること。それが、Lさんにとっての回復でした。

幻聴がある人の「普通の日常」

Lさんと関わっていて気づいたのは、「幻聴があっても普通の日常がある」ということです。声が聞こえていても、ご飯を食べて、お風呂に入って、動画を見て笑う。「症状があること」と「生活していること」は、別のことです。

Lさんが「今日は昼間に友達とLINEした」と言うとき、声のことは話題に出ないことがあります。「声はどうでしたか」と聞くと「あー、今日もうるさかったけど、まあいつもどおり」という返答。「まあいつもどおり」という言葉に、私はLさんの強さを感じます。幻聴がある日常が「普通」になっていること——それは諦めではなく、「あるもので生きていく」という知恵だと思っています。

「幻聴と生きる」というテーマは、外からは想像しにくいものです。でも、Lさんのような方と一緒にいると、「生きていくこと」の多様な形が見えてきます。「声のない生活」だけが正解ではない。「声があっても、笑える日がある」というのも、立派な回復の形だと私は思っています。

Lさんと関わる中で、私自身も「幻聴のある世界」について考えさせられることが増えました。聞こえないはずのものが聞こえる——その体験を正確に理解することは、おそらく私にはできません。でも「それがLさんの現実だ」と受け取ることはできる。「理解できなくても、否定しない」「わからなくても、一緒にいる」。それが、幻聴のある方への関わりの出発点だと思っています。Lさんが「また来てください」と言ってくれる日が続いていることが、私にとっての答えです。

幻聴は、外からは見えません。「どのくらいうるさいか」「どんな声か」「今日は少ないか多いか」——Lさんが自分で観察して、言葉にして教えてくれる。その言葉を、私は毎回丁寧に受け取ります。見えないものを、言葉で一緒に見ていく。それが、幻聴のある方との関わりの核心だと思っています。

Lさんが今日もピアノを弾いているといいな、と思いながら記録を書いています。声があっても、弾ける日が続きますように。

Lさんが「今日もいつもどおり」と言える日が続いていること、それが回復の証です。

それが、この仕事の醍醐味です。

今日もLさんに会いに行きます。


坂本なつ

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